弁護士谷直樹/医療事件のみを取り扱う法律事務所のブログ

当職が担当した2015年9月の神戸市西区の産婦人科医院の無痛分娩事故

神戸新聞「無痛分娩ミス女性死亡 麻酔で呼吸困難、子も障害」(2017年6月29日)は,次のとおり報じました.

「神戸市西区の産婦人科医院で2015年9月、麻酔を使って痛みを和らげる「無痛分娩」で出産した女性が、生まれてきた長男(1)とともに重い障害を負っていたことが28日、関係者への取材で分かった。麻酔が脊髄の中心近くに達したとみられ、女性が呼吸できなくなったという。女性は低酸素脳症が原因の多臓器不全のため、今年5月に35歳で亡くなった。同医院は責任を認め、示談金を遺族に支払った。

 女性の遺族と代理人弁護士によると、医院は「○○クリニック」。出産に立ち会った男性院長は、脊髄を保護する硬膜の外側(硬膜外腔)に背中から管を入れ麻酔薬を注入する「硬膜外麻酔」を施した直後、外来診察のため女性のそばを離れた。その際、麻酔薬が硬膜外腔より深部で脊髄中心近くのくも膜下腔に入ったとみられ、麻酔の効果が急速に現れた女性は呼吸困難に陥ったという。

 女性は別の病院で緊急帝王切開を受け、長男を出産したが、低酸素状態となった。脳に損傷を受けたため、長期間意識が戻らない遷延性意識障害に陥り、今年5月12日に死亡。長男は生まれてすぐ呼吸・循環不全に陥り、脳に酸素が十分に行き渡らなくなって障害を負ったため、現在も入院している。

 同クリニックは昨年12月に院長の過失を認め、その後、遺族に示談金を支払ったが、遺族によると、女性の死後も謝罪に訪れたことはないという。

 女性の夫(32)=東京都港区=は「出産にリスクがあったとしても対応できると思ってお願いした。対応できないのになぜ、院長は無痛分娩をさせたのか。なぜ、その場から離れてしまったのか。防げた事故だと思う」と話した。

 同クリニックは神戸新聞社の取材に回答していない。

 無痛分娩を巡っては全国的な実施総数さえ不明だが、今年4月以降、大阪府和泉市、神戸市中央区、京都府京田辺市などで、麻酔や陣痛促進剤の投与を受けた妊産婦の死亡、重症化が相次いで判明。神戸市中央区の産婦人科病院の担当医師に対しては、死亡した女性の遺族が刑事告訴した。これらを受け、日本産婦人科医会は実態調査に乗り出している。

最期の言葉は「息できない」 無痛分娩医療事故

「神戸市西区の産婦人科医院で2015年9月、麻酔を使って痛みを和らげる「無痛分娩(ぶんべん)」で出産した女性が、生まれてきた長男(1)とともに重い障害を負っていたことが28日、関係者への取材で分かった。麻酔が脊髄の中心近くに達したとみられ、女性が呼吸できなくなったという。女性は低酸素脳症が原因の多臓器不全のため、今年5月に35歳で亡くなった。同医院は責任を認め、示談金を遺族に支払った。

 産婦人科医院「○○クリニック」で起きた「無痛分娩」の際の医療事故。亡くなった女性の夫(32)=東京都港区=らは「『息ができない』と話したのが最期の言葉だった」と涙を浮かべながら経緯を打ち明けた。

 初産だった女性。小柄な体形に比べ、おなかが大きくなっていた。同クリニックは実家に近く、当初は自然分娩の予定だった。遺族によると、男性院長からは、出産が困難な際に吸引カップを使う「吸引分娩」をしながら無痛分娩をすることを提案されたという。女性の母親(60)=同市西区=も止めたため、女性はためらっていたが、院長から説明を受ける中で「病院だから大丈夫だよね」と、無痛分娩での出産を決めた。

 出産は朝から始まり、「硬膜外麻酔」の開始直後、院長は外来診察で呼ばれ離席。麻酔薬の投与が進むにつれ女性の体調は徐々に悪化し、おなかの子どもの心拍数も下がり始めた。

 看護師らが対処し、院長も戻ってくるが、その後、女性は意識を失った。同クリニックに駆け付けた母親が目撃したのは、手術室で横たわる女性の姿と別の病院に電話する院長の姿だったという。

 出産前にはおなかが動く様子を動画で撮影し、家族みんなに送っていたという女性。子どものために将来設計を練り直したり、名前を考えたりと、わが子の誕生を楽しみに待っていた。

 生まれてきた長男(1)は一時は肺炎で危篤状態になり、尿を管理する脳の機能が育たないため、常に水分調整などの処置を受けなければならないなど、「いつどうなってもおかしくない状態が続いている」という。

 遺族は「体制が整ってるところだったら、こんなことにはならなかったのか。分娩の痛みと引き換えに命がなくなるなんて」とうつむいた。(篠原拓真)」

報道の件は,私が担当したものです.

妊婦は昭和57年2月生まれで,事故後意識を回復することなく,今年5月に35歳で亡くなりました.
児は,きわめて重度の障害を負い,現在も入院中です.

このクリニック(2012年開業)には,2015年当時,医師は院長一人だけしかいませんでした.
院長は,テストドーズ(硬膜外麻酔のチューブをいれたあと試験的に少量の薬剤を投与すること)のあと外来に行き,戻ってきて無痛分娩のために麻酔薬の投薬を本格的に始めたところで,再び外来に行っために,観察ができなかった事案です.「硬膜外麻酔後の観察を怠った過失」は,示談書にも明記されています.,

2015年9月2日(妊娠40週5日)の事故の概略は,次のとおりです.
9時15分 テストドーズ後院長医師は外来へ,患者を車椅子で別の部屋(分娩室)へ移動させる
9時35分 硬膜外麻酔開始,院長医師は再び外来へ
9時40分 気分不良,嘔吐
9時51分 呼吸困難,看護師がドクターコール
9時58分 心電図装着 酸素投与
9時59分 搬送依頼
10時00分 呼吸できず
10時07分 呼びかけに反応せず
10時08分 血圧測定できず
10時10分 救急隊要請(救急隊指令記録10時10分)
10時15分 救急隊到着,心電図PEA(心静止)
10時28分 救急車内収容
10時46分 神戸大学病院に到着
10時56分 緊急帝王切開で児娩出(3466g),新生児仮死,蘇生
11時02分 母体心拍再開確認


神戸大学病院で撮影したCT画像とから髄液が引けた事実より,カテーテルがくも膜下腔に達していたことが証明されています.
たとえ,硬膜外麻酔のが高位麻酔になったとしても,その徴候がみえた段階で適切に対処すれば事故は回避できたはずで,観察を怠ったことは本当に残念です.硬膜外麻酔を始めたところで,外来に行ってしまうということは,ありえないことです.医師には,麻酔が固定する20分~30分間は産婦に付き添い監視する義務があります.もし医師自身が付き添わないなら,慣れた看護師が付き添い監視しないといけません.しかし,この件では,医師がすぐに立ち去っており,看護師への観察指示もきちんとなされていた形跡がありません.看護師からの報告もなされていません.また,血中酸素飽和濃度も測定されていません.血圧は測られていますが,麻酔前の血圧が測定されていませんので低下しだのかが確認できません.したがって,適切な管理がなされていたとはいえません.硬膜外麻酔開始後の観察ができない体制のクリニックは,無痛分娩を行ってはいけないと思います.

なお,クリニックの代理人弁護士から,今朝,電話がありました.
たしかに謝罪には行っていないが謝罪の申し出はしたではないか,という内容でした.
そのとおりで,示談に際し院長から謝罪の手紙をいただいておりますし,神戸中央区の産科麻酔事故が報道された日(5月19日)に,墓に詣でたいとの申し出が代理人弁護士を通じてありました.私はご遺族に申し出を伝えましたが,ご遺族は回答する気になれず今日に至っています.

院長医師は硬膜外麻酔後の観察察義を怠った過失を認めて(この点は示談書に明記されています),昨年12月に示談が成立していますが,この医療事故のために多くの人の人生が変わってしまいました.
無痛分娩は素晴らしい医療技術ですが,その実施は,それを正しく用いることのできる医師,施設に限るべきと思います.

【追記】
事務所にある医学書の一部には,次のとおり書かれています.

●「硬膜外カテーテル留置の際に硬膜穿破に気づかずに硬膜外腔に投与する予定量の局所麻酔薬を一度に投与すると,全脊髄くも膜下麻酔(全脊麻)となる危険性がある.急速に産婦は意識を消失し,徐脈,低血圧,呼吸停止と進行し,放置すると心停止に至る.
硬膜外針で硬膜を損傷したつもりがなくても,カテーテル挿入の際に硬膜を穿破してしまうこともある.カテーテルから脳脊髄液が吸引されれば,そのカテーテルを抜去するのは当然だが,カテーテルから脳脊髄液が吸引できなくても,カテーテルがくも膜下腔にないとは断定できない.そこで局所麻酔薬の少量分割注入が大切になってくる.一度に3mLしか局所麻酔薬を注入しなければ,たとえくも膜下腔に誤注入しても,両下肢が動かなくなった段階で異常に気づく.その後の注入を止めれば,全脊麻に至ることはまずない. 0.25%マーカインⓇを3mL (7.5 mg)注入したとしても0.5%マーカインⓇを用いる脊髄くも膜下麻酔(脊麻)の経験からは,広範囲な脊麻にはなりにくいからである. 0.25%マーカインⓇは,硬膜外投与では運動神経遮断をきたしたとしても軽度にとどまり,まったく動かせなくなることはまずない.局所麻酔薬のくも膜下誤注入は,両下肢の運動不能や,効果発現が通常よりも早いことで発見できる.」(川添太郎・木下勝之監修「硬膜外無痛分娩 安全に行うために改訂2版」78頁)

●「妊婦の硬膜外鎮痛に際し,血管穿刺は10~20%,血管内カテーテル留置も7~8.5%と高率に発生するとされている。これを見過ごして局所麻酔薬を注入すれば中枢神経/心毒性を呈し,最悪は死に至る。」(奥富俊之「周産期麻酔」213頁)
「特に無痛分娩に際してはこのような一般手術の麻酔に際してのテストドーズにこだわるよりも,むしろ局所麻酔薬の注入に際し慎重な吸引を繰り返した後,ゆっくりと5m1以下の少量分割投与をしながら麻酔域を調整する方が大切であると考える。」(奥富俊之「周産期麻酔」214頁)

●「脊椎麻酔と同様に麻酔域を確認する。効果の発現に10分前後を要する。」(後藤文夫「新麻酔科ガイドブック」79頁)

●「硬膜外麻酔では局麻薬の作用が発現するのに10~20分かかる。局麻薬を注入して15分間経過を観察し、何事も起こらないからといって患者のそばを5分程離れた間に血圧が測定不能となるまでに低下することもある。患者のそばは決して離れてはならない。」(芦沢直文「麻酔のコツとポイント」109頁)

●「テストドーズ:1%リドカイン3m1(1/200,000加エピネフリン)注入後,2分以内に心拍数が30bpm以上の上昇はカテーテルの血管内への迷入,5分以内にL4¬5の感覚低下はカテーテルのくも膜下への迷入による脊髄麻酔)。」(土肥修司「「イラストでわかる麻酔科必須テクニック」155頁)

谷直樹

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by medical-law | 2017-06-29 10:33 | 無痛分娩事故