『ルウベンスの僞畫』
19歳の堀辰雄氏は,室生犀星氏,芥川龍之介氏らと軽井沢に集まります.大正12年9月1日の震災で母を亡くする前に,芥川龍之介氏と交流のある「夫人」の娘(当時17歳 『ルウベンスの僞畫』のモデルと言われています)と出会います.
堀辰雄氏の短編小説『ルウベンスの僞畫』の一節です.
「彼女の顏はクラシツクの美しさを持つてゐた。その薔薇の皮膚はすこし重たさうであつた。さうして笑ふ時はそこにただ笑ひが漂ふやうであつた。彼はいつもこつそりと彼女を「ルウベンスの僞畫」と呼んでゐた。」
彼は,彼女に会っていないとき,彼の「ルウベンスの僞畫」によせた心像をつくりあげ,本当の彼女と似ているか,を知りたいと思いますが,本当の彼女と会っているときは,それを忘れるともなく忘れています.
「彼女たちから離れてゐる間中、彼は彼女たちにたまらなく會ひたがつてゐた。そのあまりに、彼は彼の「ルウベンスの僞畫」を自分勝手につくり上げてしまふのだ。すると今度はその心像が本當の彼女によく似てゐるかどうかを知りたがりだす。そしてそれがますます彼を彼女たちに會ひたがらせるのであつた。
ところが現在のやうに、自分が彼女たちの前にゐる瞬間は、彼はただそのことだけですつかり滿足してしまふのだ。そしてその瞬間までの、その心像が本當の彼女によく似てゐるかどうかといふ一切の氣がかりは、忘れるともなく忘れてしまつてゐる。それといふのも、自分が彼女たちの前にゐるのだといふことを出來るだけ生き生きと感じてゐたいために、その間中、彼はその他のあらゆることを、――果してその心像が本當の彼女によく似てゐるかどうかといふ前日からの宿題さへも、すつかり犧牲にしてしまふからだつた。
しかし漠然ながらではあるが、自分の前にゐる少女とその心像の少女とは全く別な二個の存在であるやうな氣もしないではなかつた。ひよつとしたら、彼の描きかけの「ルウベンスの僞畫」の女主人公の持つてゐる薔薇の皮膚そのままのものは、いま彼の前にゐるところの少女に缺けてゐるかも知れないのだ。」
これを書いたとき,堀辰雄氏は20代前半でしたが,その文体は,誰にも真似の出来ないほど完成しています.『ルウベンスの僞畫』には堀文学の原点があると思います.堀辰雄氏は,『ルウベンスの僞畫』の原稿を芥川龍之介氏に見せています.完成稿を読むことなく,同氏は自死します.
『ルウベンスの僞畫』のモデルが,もしピーテル・パウル・ルーベンス氏の絵に似ているとすれば,《シュザンヌ・フールマンの肖像(麦藁帽子)》のような気がします.
《シュザンヌ・フールマンの肖像(麦藁帽子)》
52歳のピーテル・パウル・ルーベンス氏は,16歳のイレーヌ・フールマン氏と結婚し5人の子どもをもうけるのですが,シュザンヌ・フールマン氏はイレーヌ・フールマン氏の姉です.
谷直樹
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