裁判官林景一の反対意見
「裁判官林景一の反対意見は,次のとおりである。
私は,多数意見が,本件免除が憲法20条3項に違反し無効であるとしたことについては賛同することができない。その理由は次のとおりである。
1参加人が年1回釋奠祭禮という行事を行い,参拝客が訪問する本件施設について,当時の市長は,観光振興(中国と沖縄の歴史的つながりを示す施設として観光スポットとなること)や教育学習促進(特に明倫堂において,論語という,我が国でも深く浸透してきた,いわば東洋文化の柱の一つともいうべき学問,思想について,体験学習や講演等による普及を図ること等)という非宗教的目的に価値を見いだして,その敷地の使用料の全額免除(ただし,建物は参加人が2億円以上もの費用を賄って建設したことがうかがわれる。)をしている。これについて,多数意見は,本件施設が宗教施設の外観を持っていること,そこにおいて参加人によって挙行される釋奠祭禮が,孔子の霊を前提として,これを崇め奉るという宗教的意義を有する外観を呈していること,外部の参拝者もあること等から,本件施設は宗教性を肯定することができ,その程度も軽微とはいえないと判断した上で,原審のように参加人が宗教団体であると断ずるまでもなく,空知太神社訴訟等の判例の枠組みに照らしてみた場合,当時の市長が,参加人に対して,本件施設の敷地に係る多額の使用料の全額免除をしたことは,社会通念に照らして総合的に判断すると,相当とされる限度を超えており,憲法20条3項で禁止された国等による宗教的活動に当たるから違憲無効な処分であると断じたものである。
2参加人は,久米三十六姓という様々な家系の中国からの渡来人たちの末えいが構成する血縁集団(門中)の緩やかな連合体であることがうかがわれ,法的には一般社団法人である。その定款において,琉球王朝の発展に多大な功績を築いた久米三十六姓の歴史研究,大成殿・明倫堂を含む本件施設等の公開,論語を中心とする東洋文化の普及及び人材の育成を図ることを目的とし,そのための事業として,琉球王朝時代から続く伝統文化の釋奠祭禮の挙行,論語等の東洋文化普及・交流に関する事業等を挙げている。このような定款上の目的に照らしてみると,今日においては,参加人は,琉球王朝時代風の孔子廟施設を維持すること,そして,そこにおいて釋奠祭禮という行事を続け,合わせて,論語等の東洋文化を若い世代に普及させることを重要な目的としているとみることができよう。このような目的からみる限り,今日において,参加人が,集団として,宗教としての儒教の信仰を共有し,それを継承し,普及させようとしていることはうかがえない。かつて,論語は,中国及び我が国を始めとする東アジア諸国に浸透しており,知識人や指導的階層はもとより,広く庶民に至るまで,基本的な素養,教養であると考えられており,論語を含む四書五経は,立身出世のための必修科目とみなされ,わけても論語は決定的に重要と考えられていたことは周知の事実である。本件施設内にもある明倫堂はこのための学習施設として建設されており,孔子ないしその思想の権威を示す象徴としての大成殿と一体的施設として孔子廟施設を構成していたようである。しかしながら,戦後,民主主義の発展の中で,儒教=封建的ないし前近代的な道徳という図式によって,論語の社会的重要性が低下したことは否めず,もはや体系的な論語教育はなされているとはいえないから,そのためにも,参加人が,歴史研究と併せて,論語の普及の場を設けていることに相応の意義があることがうかがえる。このようにみてくると,現在の参加人は,定款のみならず,実際の活動を評価してみても,儒教であれ,その派生宗教であれ,特定の宗教の信仰を絆として,これを日常的に実践する集団であるとみることはできない。むしろ,久米三十六姓の末えいの血縁集団の連合体として,戦後の歴史・社会状況の変化の中で,他の門中と同様,祖先の事績を偲びつつ,集団の絆を維持強化しようとするものと評価できるのではないか。本件施設で行われている釋奠祭禮は,そのために,祖先が,渡来人の思想的,実務的基盤として重視した儒学・論語文化そのものの外部への普及のための努力をしながら,集団内部においては,儒学・論語の始祖というべき孔子に対する崇敬の念を示す伝統を共有し,そのための伝統行事を催行し,継承していくこととしているものであると説明することができよう。とすれば,これは信仰に基づく宗教行為というよりも,代々引き継がれた伝統ないし習俗の継承であって,宗教性は仮に残存していたとしても,もはや希薄であるとみる余地が十分にあると考える。
3政教分離規定への適合性が争われたこれまでの判例においては,前提として神道ないし仏教があり,これらとの関係性を判断してきたものであるといえる。すなわち,地鎮祭の催行,玉串料の奉納,神社ないし地蔵像に対する土地の提供等々の事案に係る判例においては,いずれも国等の行為・活動に関し,神道ないし仏教との距離を測ることによって宗教性の濃淡を測り,目的効果基準ないし総合判断により,社会通念に照らして,相当性の限度を超えるか否かを判断してきたといえよう。しかるに,上記のとおり,参加人の定款で標榜する目的やこれに基づく日常的な活動の実態をみる限り,本件施設や釋奠祭禮については宗教性がないか,少なくとも習俗化していて希薄であると考える。実際,宗教的意義を有するとされた釋奠祭禮の主宰者である会員が他の宗教の信者であることもあるという。そして,本件においては,宗教の教義,すなわち信仰の在り方,態様はもとより,宗教上の指導者ないし聖職者及び信者集団,並びにこれらをつなぐ一定の組織性,普及活動など,常識的にみて宗教の本質的要素と考えられる要素のいずれも認定できていない。参拝者の受入れについては,参拝者の内心の問題であるから,確定的なことはいえないが,少なくとも,参拝者が当然に信仰心に基づく参拝をしたという証拠はない。そもそも本件免除の目的の一つが観光振興であることに示されているように,大半が本件公園の一角にあって我が国最南に所在する孔子廟を見物に来る観光客である可能性も高い。いずれにせよ,参拝者が組織化された宗教的活動として参拝を行っていることはうかがえず,参拝者に対する宗教の普及活動が行われていることもうかがえないから,参拝者の来訪は,本件施設の宗教性に係る判断の決定的材料であるとは思えない。結局のところ,本件施設及び参加人の活動に宗教性がないという参加人の主張に対する検討が十分に尽くされたとはいえないと考える。
宗教性は,突き詰めると内心の問題に行き当たって,裁判になじまない部分があることも事実である。であるからといって,本件施設について,今日的な宗教性を否定する相応の主張,理由があって,前記のとおり,もはや宗教性がないか,既に希薄化していると考えられる中で,外観のみで,宗教性を肯定し,これを前提に政教分離規定違反とすることは,いわば「牛刀をもって鶏を割く」の類というべきものである。
4また,政教分離規定は,信教の自由を確保するという目的のために,国等が,特定の宗教との関わり合いを持つことで,当該宗教を援助,助長し,又は他の宗教を圧迫することになるから,相当と認められる限度を超える関わり合いは禁止されるべきものであるという考えに立脚している。しかし,「何らかの」という以上に宗教の特定も,信者集団を含めた宗教組織ないし団体の存在の認定もできないのであれば,助長される対象が特定できないことになるのであるから,政教分離規定違反を問うことはできないのではあるまいか。それにもかかわらず,本件において,政教分離規定に違反するとの判断をすることは,政教分離規定の外延を曖昧な形で過度に拡張するものであって,たとえ総合判断の過程において,文化財指定の有無や国際交流という目的等が考慮され得るとしても,憲法違反とされるおそれや
訴訟の手続負担のおそれによって,歴史研究・文化活動等に係る公的支援への萎縮効果等の弊害すらもたらしかねないものであると考える。
5以上によれば,本件免除が憲法20条3項の禁止する宗教的活動に該当するとした原審の判断には誤りがあり,また,本件免除が憲法20条1項後段及び89条に違反するということもできない。そうすると,本件において,私的団体である参加人が,旧至聖廟等の跡地を引き続き所有するなど,比較的裕福な団体であることがうかがわれるのに,当時の市長が年500万円以上にも上る使用料を全額免除したこと自体は,公的支援として過ぎたるものではないかという違和感を覚えるものではあるが,本件免除が無効であるということまではいえない以上,第1審原告の請求は棄却するほかないと考える。」
谷直樹
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