飛鳥の明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ
藤原京=新益京(あらましのみやこ)から平城京への遷都が行われたのは,710年4月13日(旧暦和銅3年3月10日)でした.
持統天皇,持統天皇の子草壁皇子の子文武天皇,文武天皇の母元明天皇の3代の都であった藤原京はわずか16年で放棄されました.
藤原京は,橿原市と明日香村にまたがり,香久山,畝傍山,耳成山の大和三山に囲まれた地にありました.
豪族の力が強く,門にそれぞれの豪族の名が添えられていました.
藤原不比等らがそれを嫌い,平城京への遷都となったのかもしれません.
遷都は文武天皇の時代から検討されていたようです.
遷都は,藤原不比等らの意向で,元明天皇の名で発令されますが,同天皇は次の歌を残しています.
飛鳥の明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ
(飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武)
「君があたり」とは子の文武天皇が埋葬された墳墓でしょう.
宮内庁は栗原塚穴古墳を文武天皇陵としていますが,最近の研究では,奈良県明日香村の八角墳・中尾山古墳こそが「真の文武天皇陵」であるとされています.
谷直樹
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