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相当な程度の脱水状態に陥っていた患者について麻酔の効果及び範囲を確認する注意義務 札幌地裁平成14年6月14日判決

札幌地裁平成14年6月14日判決(裁判長 佐藤陽一)は,原告Aが被告の開設した病院においてイレウス(腸閉塞)の手術のために施行された麻酔の導入時に心停止をきたし,脳虚血による大脳皮質障害を原因としていわゆる植物状態に陥った事案で,「相当な程度の脱水状態に陥っていた原告Aに対して本件麻酔を施行するに当たり,最初にキシロカイン2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,原告Aの状態に異常が認められないことを確認した上で,必要量のキシロカインを原告Aの状態をみながら緩徐かつ慎重に注入し,その後5ないし10分程度待ち,麻酔の効果及び範囲を確認し,原告Aの状態に異常が認められないことを確認した後に,必要量のイソゾールを原告Aの状態をみながら緩徐かつ慎重に注入すべき注意義務を負っていたにもかかわらず,これを怠り,麻酔剤を急速に注入した過失がある」と判示しました.
脱水状態の認定,麻酔薬投与に関し参考となる判決です.
なお,これは私が担当した事件ではありません.

「3 争点(3)(本件麻酔施行上の過失の有無)について
  
(1) 原告らは,本件麻酔施行時,原告Aの全身状態が悪化し,脱水状態に加えてショック状態ないしプレショック状態を呈していたにもかかわらず,麻酔医において,原告Aの全身状態の把握を怠り,全身状態が良好な場合におけるのと同様の硬膜外麻酔を施行した過失あるいは麻酔剤を急速に注入した過失により,原告Aを心臓停止に陥らせ,その結果,大脳皮質障害に陥らせた旨主張するので,この点について検討する。

(2) 前記前提となる事実に加え,後掲各証拠によれば,以下の事実が認められる。

ア(ア) イレウスによる脱水について
イレウスの患者においては,時間の経過とともに細胞外液に含まれない液体が腸管内に貯留し,腸管内容が口側に逆流して嘔吐となって現れるため,脱水,電解質不均衡,血液濃縮,高窒素血症,乏尿等が生じやすく,中心静脈圧,心拍出量,循環血液量等が低下し,著しいときはショックに陥る危険がある(甲2,36)。
脱水状態を十分に改善しないまま,イレウスの患者に麻酔を施行した場合,患者がショック状態に陥る危険があるため,麻酔医は,イレウスの手術に当たり,術前に患者の全身状態をよく把握し,患者に脱水があれば,輸液等により水分,電解質,酸塩基平衡の補正を行い,患者の循環血液量を正常に戻した上で,麻酔を施行すべきである(甲2,3,21,35,38)。
患者が脱水状態にあるか否かを評価する上で,病歴からは健康時との体重の変化量,絶飲食の時間,嘔吐や下痢等の体液異常喪失等が,身体所見からは血圧,心拍数等のバイタルサインのほか,皮膚粘膜の状態,倦怠感,尿の色,尿比重等が,検査所見からはヘモグロビンの上昇,ヘマトクリットの上昇,電解質ナトリウムの変化,血清尿素窒素の上昇,尿素窒素クレアチニン比の上昇等がそれぞれ重要な基準となる(甲35,38)。
    
(イ) 硬膜外麻酔について
硬膜外麻酔には,①任意の分節の麻酔が得られること,②持続麻酔によって手術中及び手術後も長時間にわたって除痛することが可能であること,③脊椎麻酔に比べ,呼吸系や循環系に与える影響が小さく,合併症の危険が小さいこと,④全身麻酔と併用することにより応用範囲が拡大することなどの利点がある一方,①手技が難しく,硬膜外腔を確認する手技に熟達している必要があること,②麻酔が広範囲になると血圧が低下し,全身麻酔を併用した場合,使用吸入麻酔剤によっては著明に血圧の低下をみることがあることなどの欠点がある(甲3,22,34,乙15)。
硬膜外麻酔が血圧の低下を招くのは,交感神経の遮断により血管の拡張及び心筋の被刺激性の低下をもたらすためであり,血圧の低下の程度は,循環血液量が不足している症例において著明である(甲3,22,33,34)。
このため,硬膜外麻酔は,①ショック状態の患者,例えば消化管穿孔やイレウスの末期の患者,②高度の脱水,貧血等で循環血液量が不足していると思われる患者に対しては,禁忌であるとされており,循環血液量が不足している患者については,術前に十分な輸液を行い,循環血液量を補正することが必要である(甲22,34)。
麻酔剤の中でも,キシロカインには,麻酔の作用の発現が早く,麻酔力が強く,拡がりやすいという性質がある(甲3,22)。
    
(ウ) 全身麻酔を併用する場合の注意点について
全身麻酔剤イソゾール(バルビタール剤)には,心筋抑制作用によって心拍出量を減少させ,血管運動中枢を抑制し,末梢血管を拡張させる作用があるため,血圧の低下をもたらす。このため,循環血液量が減少している患者に対しては,少量にとどめるべきであり,ショック状態の患者に対しては,禁忌であるとされている(甲3,33)。
また,硬膜外麻酔により腹部や下肢の血管が拡張し,代償的に上肢の血管が収縮を起こしているようなときに,全身麻酔の併用によって全身の血管の拡張作用をもつ麻酔剤を投与すると,この代償作用をも消失させ,血圧を大幅に下降させ,心拍出量も低下させるため,注意が必要であるとされている(甲25)。
    
(エ) 麻酔剤の量及び注入速度について
硬膜外麻酔の施行に当たっては,まず,麻酔剤2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,これによる異常が認められないことを確認した上で,必要な量の麻酔剤を本格的に注入する(甲3,乙15)。
硬膜外麻酔において2パーセントキシロカインを投与した場合,投与後2ないし3分で温覚が消失し,4ないし5分後に痛覚鈍麻が起こり,さらに2ないし3分で無感覚となり,15ないし20分で麻酔域が概ね固定する(甲3)。
脱水,イレウス等により循環血液量が減少している患者は,循環抑制を生じやすいため,麻酔剤を急速に注入すると,心停止の危険がある(甲21)。
硬膜外麻酔のみを施行する場合には,十分量の麻酔剤を投与するが,硬膜外麻酔に全身麻酔を併用する場合には,硬膜外麻酔のみを施行する場合の半分の量の麻酔剤の投与で足りる。全身麻酔を併用する場合に,十分量の硬膜外麻酔剤を投与すると,硬膜外麻酔による交感神経の遮断に全身麻酔による交感神経の遮断が加わり,血圧が著しく低下する(甲34)。
   
イ 本件麻酔を施行した被告病院のG医師は,本件麻酔について概ね次のような見解を示す(乙22,証人G)。
    
(ア) 硬膜外麻酔には血圧を下げる作用があり,イソゾールには循環抑制作用がある。

(イ) 第2手術の前に,J医師らから,当日施行した造影検査の結果通過障害があったこと,それまでの治療経過並びに一般血液検査及び生化学検査の結果等について説明を受けた。手術室に入室した原告Aを見たところ,腹痛を訴えており,第1手術の時に比べて体重が減少している印象を受けたが,全身の皮膚,口唇等の状態は,著明な脱水症状と判断されるものではなかった。また,術前に既に強度の脱水症状その他の異常所見があれば,担当の外科医から申し送りがあるはずであるが,格別のものはなかった。自ら看護記録を点検したりはしなかった。

(ウ) 平成3年4月3日の血液検査の結果は,同年3月15日の血液検査の結果と比べて赤血球,ヘモグロビン,ヘマトクリットの数値がそれぞれ上昇しており,循環血液量が減少したことがその一因とも思われるが,特に異常な数値ではない。同年4月3日の白血球数(9800)は,腹部に異常のある患者の数値として特に異常な数値であるとはいえない。また,同月4日の白血球数(1万9900)は,心停止後に採血した結果であると考えられるが,心臓マッサージ等により循環動態に著明な影響があった後であるために高い数値になったものと考えられる。
    
(エ) 原告Aの全身状態,体重の減少及びJ医師らの申し送り事項等を考慮し,第1手術よりも2ミリリットル減量した2パーセントキシロカイン10ミリリットルをG医師が自ら注入した。
麻酔の範囲は,麻酔施行後5ないし10分後に判明するところ,当初は硬膜外麻酔の単独施行を考えていたが,硬膜外麻酔施行後に腹部の筋弛緩が不十分であると考えられたため,硬膜外麻酔だけでは十分でないと考え,全身麻酔を併用することにした。そして,原告Aの全身状態,体重の減少及びJ医師らの申し送り事項等を考慮し,第1手術よりも4ミリリットル減量したイソゾール10ミリリットルがG医師の指示の下に看護婦により注入された。この際,看護婦の注入方法に問題があったという記憶はない。
    
(オ) 結果から逆推すると,原告Aは,同日の段階では,既にプレショック状態ないし強度の脱水状態で,麻酔剤の量を控え目にしたとはいえこれにも持ちこたえられない程度の重篤な状態であったとも考えられる。
   
ウ 原告Aの主治医であった被告病院のJ医師は,本件麻酔施行時の原告Aの状態について概ね次のような見解を示す(証人J)。
     ショック状態であれば,レントゲン検査等はできないので,原告Aはそこまで重篤な症状ではなかったと考えられる。また,イレウスの場合,必ず脱水を伴うが,第2手術の時点で,原告Aの脱水は軽度であったと判断している。原告Aが歩行してトイレに行っていること,車椅子で検査に行っていることや血圧,脈拍,体温及び呼吸状態等のバイタルサインから,全身状態が第2手術の時点で特に悪化しているとは考えなかった。
   
エ i病院で第3手術を担当したK医師は,同病院を受診した際の原告Aの状態等について概ね次のような見解を示す(証人K)。
    
(ア) i病院を受診した際,原告Aは既にショック状態で,血圧は80台であり,脈拍は190台と頻脈を呈していたが,脱水もその因子の1つと考えられる。初診時,K医師は,原告Aのイレウスの状態について,これは大変なことだなと理解した。
    
(イ) 平成3年4月5日に開腹した第3手術の際の腸管の壊死,穿孔の状態は,穿孔が始まって1両日程度経過した状態であると考えられる。
    
(ウ) 原告Aの心停止の原因としては,脱水症状が非常に強かったこと,敗血症になっていたこと,心房細動があったことなどの因子が重なったものと考えられる。
   
オ 鑑定人であるH医師は,本件麻酔について概ね次のような見解を示す(証人H,鑑定の結果)。
    
(ア) 硬膜外麻酔には,末梢血管を拡張させ,血圧を低下させる作用があるため,ショック状態の患者については禁忌であり,高度の脱水の症例については脱水を補正しない限り禁忌である。
    
(イ) イレウスの患者の場合,急激に脱水が進行することも考えられる。急激に脱水が進行した場合,外見上,皮膚や口唇の状態から脱水の程度を推測することは難しい。
    
(ウ) 平成3年4月3日の血液検査におけるヘモグロビン,ヘマトクリット,尿素窒素クレアチニン比の上昇から,原告Aは,ある程度の脱水状態にあったと考えられ,これらの数値の推移からみると,脱水の度合いがかなり上昇した可能性もある。また,クロール値の低下から,かなりの嘔吐がみられたと考えられる。同月4日の第2手術の前に,できれば原告Aの血液検査をすべきであった。
    
(エ) 原告Aには心房細動があり,血栓を作りやすい状態にあるが,麻酔管理上それほどのリスクは伴わないと考えられる。心停止により白血球数が増加することもあるが,仮に,原告Aの手術時の白血球数が1万9900と高値を示していたとしても,その原因が手術部位であるイレウスにあると考えれば,原因を元から絶つために手術に踏み切ることに特に問題はない。
    
(オ) 絞扼性イレウスという状況であっても,痛みの遮断や全身麻酔剤の軽減という利点を考えると,硬膜外麻酔が不適当とは考えない。イレウスの患者については,フルストマック状態にあることを念頭に置き,誤えん性肺炎を予防するため,意識下に手術を行う麻酔方法がしばしば選択され,この点からも硬膜外麻酔を選択することに問題はない。
    
(カ) 硬膜外麻酔を施行するに当たっては,脱水状態が強いと血圧が急激に低下する危険性があるため,十分な輸液を行うべきであるところ,原告Aの場合,硬膜外麻酔のためのチューブを挿入するまでの約30分間にグルコース200ミリリットル(中心静脈栄養),ラクテック250ミリリットル(末梢)が点滴投与されており,また,原告Aは,手術室入室時の血圧が最高108,最低73であり,硬膜外麻酔の施行に必要な体位をとっているから,少なくともショック状態ではなく,原告Aに対して硬膜外麻酔を施行したことは妥当である。また,硬膜外麻酔に全身麻酔を併用したことについても,バランス麻酔として適切である。
    
(キ) 結果的に心停止が起こったことから逆推すると,末梢血管を拡張させて血圧を下げる作用のあるキシロカインと心臓の収縮力を弱めて血圧を下げる作用のあるイソゾールの効果がある1点で合わさって相乗的に作用し,予想を超えた血圧下降反応を示したのかもしれず,また,原告Aには心房細動があったため,血栓を生じ易かった可能性もある。いずれにしても,原告Aが心停止に陥ったのは,通常の一般的概念を逸脱したものであったと考えられる。
    
(ク) 本件麻酔において,キシロカインを投与してからイソゾールを投与するまでの時間が余りないが,硬膜外麻酔の効果は,5分ないし10分程度後に現れることが多いので,少し待つのが普通であると思う。イソゾールには,血圧を低下させる作用があるので,全身状態が悪い場合には慎重に投与しなければならない。
  
(3)ア 本件麻酔施行時,原告Aが脱水状態にあったか否かについて
    
(ア) 原告らは,本件麻酔施行時,原告Aが脱水状態にあった旨主張するので,まずこの点について検討する。
    
(イ) 血液検査の結果について
前記第3の3(2)ア(ア)及び第3の3(2)オによれば,患者が脱水状態にあるか否かを評価する上で,血液検査の所見からは,ヘモグロビンの上昇,ヘマトクリットの上昇,電解質ナトリウムの変化,血清尿素窒素の上昇及び尿素窒素クレアチニン比の上昇等が重要な基準となることが認められる。
そこで,原告Aの血液検査の結果について検討するに,前記前提となる事実(2)オ(ケ)記載のとおり,本件麻酔施行前日である平成3年4月3日,原告Aのヘモグロビンは,それまでの検査数値の中で最も高い17g/dlの数値を記録しているが,これは正常値のほぼ上限の値である。次に,同日,原告Aのヘマトクリットは,正常値の範囲内にとどまっているものの,それまでの検査数値の中で最も高い47.7パーセントの数値を記録している。また,同日,原告Aの電解質ナトリウムは,それ以前の検査数値の中で最も低い135mEq/lの数値を記録しているが,これは正常値の下限の値である。そして,同日,原告Aの血清尿素窒素は,それ以前の検査数値の中で最も高い37mg/dlの数値を記録しているが,これは正常値の上限の2倍近い異常値である。さらに,同日,原告Aの尿素窒素クレアチニン比は,それ以前の検査数値の中で最も高い33.636の数値を記録しているが,これは正常値の上限の3倍を超える異常値である。
また,本件麻酔施行後,原告Aが心停止した後に採血した同月4日の血液検査の結果について検討するに,前記前提となる事実(3)ウ記載のとおり,原告Aの電解質ナトリウムは,131mEq/lと前日よりもさらに低い数値を示し,原告Aの血清尿素窒素は,58.9mg/dlと異常値を示した前日に比しても急激に上昇しているし,原告Aの尿素窒素クレアチニン比は,34.647と前日よりもさらに高い数値を示している。
さらに,前記第3の3(2)オによれば,電解質クロールの低下は,嘔吐があることを示していると認められるところ,前記前提となる事実(2)オ(ケ)及び(3)ウ記載のとおり,同月3日及び同月4日の原告Aの電解質クロールは,それぞれ90mEq/l,88mEq/lと正常値を大きく下回る数値を記録していて,原告Aにかなりの嘔吐があったことを裏付けるものである。
以上のような血液検査の結果に加えて,H医師が,前記第3の3(2)オ記載のとおり,同月3日の血液検査におけるヘモグロビン,ヘマトクリット及び尿素窒素クレアチニン比の上昇から,原告Aがある程度の脱水状態にあったと考えられ,これらの数値の推移からみると,脱水の度合いがかなり上昇した可能性もある旨の見解を示していることに照らせば,本件麻酔施行時,原告Aの脱水状態は相当進行していたと推認することができる。
    
(ウ) イレウスの悪化とそれに伴う脱水状態の変化について
前記第3の3(2)ア(ア)によれば,イレウスの患者においては,時間の経過とともに細胞外液に含まれない液体が腸管内に貯留し,嘔吐も現れるため,脱水に陥りやすいことが,また,前記第3の1(2)イによれば,持続性の激しい腹痛及び白血球数の増加等は,絞扼性イレウスに特徴的な所見であることが認められる。
そして,①前記前提となる事実(2)オ(ク)及び(3)イ(ウ)記載のとおり,原告Aは,本件麻酔施行当日である平成3年4月4日午前4時ころから,それまでの自制の範囲内のものとは異なる自制不可能な腹痛を訴え始め,この腹痛は,鎮痛剤を投与されたにもかかわらず手術室に入室するまで続いていたこと,②前記前提となる事実(2)オ(ケ)記載のとおり,同月3日の血液検査において,原告Aの白血球数が,それ以前の検査数値の中でも最も高い9800の数値を記録しているところ,これは正常値の上限値であること,③前記前提となる事実(4)イ記載のとおり,本件麻酔の施行から1日余りしか経過していない同月5日の第3手術の際,原告Aの小腸の一部が既に圧迫壊死し,穿孔及び汎発性腹膜炎が生じていたところ,前記第3の3(2)エ記載のとおり,執刀したK医師は,この状態について,穿孔が始まって1両日程度経過した状態であると考えられる旨の見解を示していることに照らせば,本件麻酔施行時,原告Aのイレウスは悪化し,既に絞扼性イレウスに至っていた可能性も否定し難く,仮に絞扼性イレウスに至っていなかったとしても,原告Aの腹部の炎症が相当程度亢進していたものと推認することができる。
そうすると,本件麻酔施行時,原告Aにおいて,イレウスの悪化及び腹部の炎症の亢進に伴い,脱水の度合いも一段と悪化していたものと推認することができ,この点は,上記(イ)の血液検査の結果からの推認と一致するということができる。
    
(エ) 原告Aの脱水状態の程度とその認識可能性について
前記前提となる事実(2)オ(キ)記載のとおり,原告Aは,平成3年4月3日午後10時50分ころ,250ミリリットルの濃縮尿を排泄している。また,前記前提となる事実(4)ア記載のとおり,被告病院のI医師は,i病院の外科医に宛てた同月5日付けの依頼状において,原告Aの状態について,「現在脱水強く」と記載しているところ,甲11号証(本件麻酔施行後i病院に搬送されるまでの間の被告病院における看護記録)によれば,原告Aは同月4日午後7時35分ころに1回嘔吐したことが認められるほかは,本件麻酔施行後,i病院に搬送されるまでの間,イレウスの進行を除けば,その脱水状態を悪化させるような事情も特に認められない(原告Aがi病院に到着したのが同月5日午後零時50分ころであり,前記甲11号証の看護記録の記載が同日午前10時05分で終わっていることからみて,I医師の上記依頼状は同日午前10時ころまでに書かれたものと推認される。)。さらに,前記第3の3(2)エ記載のとおり,K医師は,原告Aがi病院を受診した際に既にショック状態であり,脱水もその因子の1つと考えられる旨の見解を示している。
以上の事実と上記(イ)及び(ウ)で認定した原告Aの血液検査結果及び脱水状態の変化に照らすと,原告Aは,本件麻酔施行時には,前日の血液検査に係る採血が行われた時点と比べて格段に脱水の程度が進行していたと推認するのが相当であり,したがって,被告病院の医師が第2手術を施行するに先立って原告Aの血液生化学検査を行っていれば,原告Aが既に相当な程度の脱水状態にあることを認識することができたと推認することができる。

イ 原告Aの全身状態の把握を怠った過失の有無について
    
(ア) 原告らは,本件麻酔施行時,原告Aの全身状態が悪化していたにもかかわらず,被告病院の麻酔医において,原告Aの全身状態の把握を怠った過失がある旨主張するので,この点について検討する。
    
(イ) 前記第3の3(2)ア(ア),(イ)及びオによれば,脱水状態を十分に改善しないまま,イレウスの患者に麻酔を施行した場合,患者がショック状態に陥る危険があるため,麻酔医は,イレウスの手術に当たり,術前に患者の全身状態をよく把握し,患者に脱水があれば,これを補正した上で,麻酔を施行すべきであること,特に,硬膜外麻酔は,血圧を低下させる作用を有し,その程度は脱水等により循環血液量が不足している症例において著明であるから,高度の脱水等により循環血液量が不足している症例に対しては,脱水を補正しない限り禁忌であることが認められる。
これに加えて,①イレウスの患者の場合,急激に脱水が進行することも考えられる(証人H)ところ,上記ア(イ)及びア(エ)のとおり,第2手術の前日である平成3年4月3日に施行された血液検査の結果は,原告Aが脱水状態にあり,それが進行していることを疑わせるものであり,同日夜には濃縮尿を排泄していたこと,②前記前提となる事実(2)オ記載のとおり,原告Aは,同日までは腹痛を訴えても自制の範囲内であったのに,同月4日には一転して自制不可能な腹痛を訴え始めるなど,その容態に顕著な変化がみられたことも併せ考えれば,被告病院の医師において,本件麻酔を施行するに先立ち,原告Aが,硬膜外麻酔を施行する上で禁忌であるとされる高度の脱水状態に陥っていないかどうか等,原告Aの脱水状態の程度を確認するために,原告Aの血液生化学検査を行うほか,原告Aの全身状態を改めて慎重に診察し,とりわけ原告Aがどの程度の脱水状態に陥っているかを十分に検査し診察すべき注意義務があったというべきである。しかるに,被告病院の医師は,これを怠り,本件麻酔を施行するに先立って原告Aの血液生化学検査等をして改めて診察をしなかったため,原告Aにおいて,前日に行われた血液生化学検査のときと比べて格段に脱水の程度が進行して相当な程度の脱水状態に陥っていたことを看過した過失があるというべきである。なお,本件麻酔を担当したG医師は,原告Aの同日までの症状を詳細に把握していなかったが,この点は,麻酔担当医としての過失あるいは原告Aの主治医であるJ医師がG医師に情報を伝達することを怠った過失によるものというべきである。
この点について,H医師は,前記第3の3(2)オ記載のとおり,第2手術の前に,できれば原告Aの血液検査をすべきであった旨の見解を示しており,この見解は,被告病院の医師において,本件麻酔を施行するに先立ち,原告Aの血液生化学検査を行うべき注意義務があったとの上記認定を裏付けるものと考えられる。

ウ 本件麻酔の手技が不適切であったことについて
    
(ア) 原告らは,被告病院の麻酔医において,全身状態が良好な場合におけるのと同様の硬膜外麻酔を施行した過失又は麻酔剤を急速に注入した過失がある旨主張するので,この点について検討する。
    
(イ) 前記第3の3(2)ア(イ),(ウ),イ及びオによれば,①硬膜外麻酔は,血管を拡張させて心筋の被刺激性を低下させる作用を有するため,血圧の低下を招き,その程度は,脱水等により循環血液量が低下している症例において著明であるから,高度の脱水等により循環血液量が不足している症例に対しては,脱水を補正しない限り禁忌であること,②麻酔剤の中でも,キシロカインは,麻酔力が強く,拡がりやすいという性質を有すること,③イソゾールは,心筋及び血管運動中枢を抑制し,末梢血管を拡張させる作用を有するため,血圧の低下を招き,その程度は,脱水等により循環血液量が減少している症例において著明であることが認められる。
また,前記第3の3(2)ア(ウ),(エ),イ及びオによれば,①硬膜外麻酔を施行するに当たっては,最初に麻酔剤2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,これによる異常が認められないことを確認した上で,必要な量の麻酔剤を本格的に注入すべきであること,②イソゾールには,血圧を低下させる作用があるため,循環血液量の減少している患者には少量にとどめるなど,全身状態が悪い患者に対しては慎重に投与しなければならないこと,③硬膜外麻酔と全身麻酔とを併用する場合には,硬膜外麻酔を施行した後,5ないし10分程度待ち,硬膜外麻酔の効果及び範囲を確認した上で,全身麻酔を施行すべきであること,④共に血圧を下げる作用を有する硬膜外麻酔とイソゾールとを併用した場合,血圧を大幅に下降させる可能性があることが認められる。
    
(ウ) 以上の認定事実によれば,麻酔医において,相当な程度の脱水状態に陥っている患者に対してキシロカインを用いた硬膜外麻酔とイソゾールを用いた全身麻酔とを併用するに当たり,最初にキシロカイン2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,患者の状態に異常が認められないことを確認した上で,必要量のキシロカインを患者の状態をみながら緩徐かつ慎重に注入し,その後5ないし10分程度待ち,麻酔の効果及び範囲を確認し,患者の状態に異常が認められないことを確認した後に,必要量のイソゾールを患者の状態をみながら緩徐かつ慎重に注入すべき注意義務を負っているというべきである。
ところが,手術室記録(乙3)には,本件麻酔の施行に当たり,午前11時45分に硬膜外チューブから2パーセントキシロカイン10ミリリットルを注入し,続いて,午前11時48分にイソゾール10ミリリットルを注入した旨の記載があるところ,H医師は,手術室記録の上記記載は,緩徐に行った麻酔剤の注入をまとめて記載した可能性があるので,必ずしも,上記各麻酔剤をそれぞれ一時に注入したとは限らない旨指摘するが(証人H),G医師の陳述書(乙22)及び証人Gの証言中には,上記手術室記録の記載とは異なる上記注意義務に従った方法で各麻酔剤を注入したことをうかがわせる部分がないことに照らすと,G医師は,午前11時45分に2パーセントキシロカイン10ミリリットルを短時間のうちに1度に注入し,そのわずか3分後である午前11時48分に,看護婦に指示してイソゾール10ミリリットルを短時間のうちに1度に注入したものと認めるのが相当である。
そうすると,被告病院の医師において,上記アで認定したとおり相当な程度の脱水状態に陥っていた原告Aに対して本件麻酔を施行するに当たり,最初にキシロカイン2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,原告Aの状態に異常が認められないことを確認した上で,必要量のキシロカインを原告Aの状態をみながら緩徐かつ慎重に注入し,その後5ないし10分程度待ち,麻酔の効果及び範囲を確認し,原告Aの状態に異常が認められないことを確認した後に,必要量のイソゾールを原告Aの状態をみながら緩徐かつ慎重に注入すべき注意義務を負っていたにもかかわらず,これを怠り,麻酔剤を急速に注入した過失があるというべきである。
この点について,H医師は,前記第3の3(2)オ記載のとおり,本件麻酔において,キシロカインを投与してからイソゾールを投与するまでの時間が余りないが,少し待つのが普通である旨の見解を示しており,この見解は,被告病院の医師において麻酔剤を急速に注入した過失がある旨の上記認定に沿うものである。

エ 被告病院の医師の過失について
上記イ及びウによれば,被告病院の医師において,本件麻酔の施行前に原告Aの血液生化学検査等を行い,原告Aが相当な程度の脱水状態にあることを把握し,こうした原告Aの状態に応じた慎重な麻酔方法を採るべき注意義務を負っていたにもかかわらず,これを怠り,原告Aの血液生化学検査等を行わず,このため原告Aが相当な程度の脱水状態にあることを看過し,2パーセントキシロカイン10ミリリットルを急速に注入し,そのわずか3分後にイソゾール10ミリリットルを急速に注入した過失があるというべきである。証拠(乙18,証人H,鑑定の結果)中,以上の認定に反する部分は,その前提を異にするものであって,採用することができない。」


同判決は,次のとおり判示し,因果関係を認めました.

「オ 因果関係について
前記第3の3(2)ア(イ)ないし(エ)によれば,キシロカイン及びイソゾールは,共に血圧を下げる作用を有し,血圧の低下の程度は,脱水等により循環血液量が減少している患者において著明であること,硬膜外麻酔と全身麻酔を併用した場合に,その効果が相乗し,血圧を著しく低下させ,心拍出量を低下させる可能性があるため,注意が必要であること,脱水により循環血液量が減少している患者に対して麻酔剤を急速に注入すると,心停止の危険があるとされていることが認められる。
したがって,一方で,原告Aが相当な程度の脱水状態にあることを看過し,共に脱水状態にある患者の血圧を著明に低下させる危険のある麻酔剤をいずれも急速に注入したという過失があり,他方で,前記前提となる事実(3)イ記載のとおりそのわずか約10分後に原告Aの血圧が測定不能になり,さらにそのわずか約9分後に原告Aの心停止が確認され,心停止による脳虚血を原因とする大脳皮質障害に至ったもので,脱水状態の患者に対して血圧を低下させる作用のある麻酔剤を急速に注入した場合に予想される典型的な転帰をたどったということができるのであるから,他に特段の事情の認められない限り,その過失と結果の発生との間には相当因果関係があると推認するのが相当である。そして,上記の推認を妨げるような特段の事情も認められない本件においては,被告病院の医師の過失により,原告Aに大脳皮質障害という結果が発生したものであり,その間には相当因果関係があると認めることができる。
さらに,①前記第3の3(2)オのとおり,H医師も,心停止という結果から逆推すると,共に血圧を下げる作用のあるキシロカイン及びイソゾールの効果がある1点で合わされ,相乗的に予想を超えた血圧下降反応を示した可能性がある旨の見解を示していること,②前記前提となる事実(2)エ記載のとおり,原告Aは,硬膜外麻酔(2パーセントキシロカイン)と全身麻酔(イソゾール)の併用下に第1手術を受けたが,血圧の一時的低下こそみられたもののエフェドリンの投与により回復しており,大事に至ることはなかったことからすれば,上記麻酔剤に対する原告Aの特異体質等,他に心停止の原因があったとは考えにくいことも,被告病院の医師の過失と原告Aに生じた結果との間に相当因果関係がある旨の上記認定を裏付けるものである。」


谷直樹

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by medical-law | 2022-02-06 06:47 | 医療事故・医療裁判